小説「13人を斬った元会津藩、抜刀隊士の謎」(3)
「幕府を守る為に戦ってもどうせ負ける。この国は薩長が乗っ取った」
けれど一方でこうも言う
「どうせ負けるなどと言うのは恥ずかしい。それでも命をかけてこそ武士ではないか」
どう生きたらいいのか。
どう生きれば正しいのか。
志とは何であり、武士とは何なのか。
それはもう、何も無い会津で本の中で学んだこととは、あまりに違っていて、取り巻く現世はといえば、ただ血を流し、誰かがどこかで名も知られぬまま死ぬ。それが怖くて必死に逃れようとする姿だけが、私には「生きる」ことのように思えてならなかった。
会津へ、戻らねばならない。
その頃か。小料理屋で男らが
「ああ。気の毒だが、旗本にまでなっておいて何の意味もないな」と噂するのを聞いた。
すると、女将が一人で飲んでいた私に言った。
「あんたもうよしなよ、出世だの上様だのは。ご時世眺めたら、この私にだってわかるよ。もう侍だのは、なくなっちまうんだよ。上の方のツラをとっかえただけだろうよ。出世ったってさ、本当は誰も出世なんかしやしないのサ」
最初、京に発った時の意気揚々とした自分と、比べものにならない惨めな、臆病な「ただの何某」かがそこにいた。それでいい。一人身を守って、ただ生き延びるのだ。皆と同じだ。その日の酒をうまいと思えたら、それ以上は無いでは無いか。お里か、きっと私のことなど忘れたであろう、懐かしい、ただの思い出だ…。
だが、その年の夏になってのことだ。容保様を助けてほしいと、東北の各藩は願い出したがかなわなかった。会津は攻め入られる。城も、城下も、容保様も全て、滅ぼされる!
それは、今までぼんやりと過ごしていた自分に投げられた最後の問いだった。
「このまま動かぬのか」と。
会津が落ちる。私は脳天を殴られたように「会津が落ちる」と繰り返した。
世が、どちらに動こうが揺るがぬものが、己だけが知り得るものがあったのではないか?
問いは私を動かした。それから私は考えることを捨てた。一切の雑念を捨てた。急ぎ、会津へ駆け戻った。道中、ひたすらに願った。忘れたはずの、あの子犬のようなお里が無事でいてくれることを。家の者、仲間、すっかり背を向けた懐かしい人たちを。
だがもう遅かった。
私が着いた時城下は火の海に巻かれ、鶴ヶ城は砲撃で落ちた。邸も焼けた。
焼け出され、残った人に尋ね歩いた。お里さんは無事かと。
城や武家屋敷の女らには覚悟を決めて自刃した者らが大勢いたとも聞いたが、お里に関しては、なんとも哀れで、そしてなんともお里らしい死に方であった、あれは何か大事な物を取りに行こうとしたがもともと目がよく見えないゆえ、手間取っているうちに煙に巻かれたらしいと
そんな話を聞かされた。
結局、何一つ守れず、私は私を守って逃げていただけだ。そう責めても、全ては戻らなかった。
それから再び、江戸に戻って、世は明治になった。
江戸が東京に変わると、藩邸はなくなり、武士も無くなった。
代わりに東京を警備する者が必要だとして、士族中心に「邏卒(らそつ)」の募集があったので、私はそれに応募した。
不審者を見つけては検挙する。ちょっとでも怪しいなら逮捕する。世には忌み嫌われるその存在は、やがて「巡査」と呼び名を変えられた。
十年はあっと言う間に過ぎた。
それから、薩摩士族が反乱を起こした。
かつて会津と組み、しかし会津を賊軍として攻めた薩摩が、今度は賊軍と言われ攻められる。
挙兵した薩摩を討つために、川路大警視が新しく警視隊を結成するという。私はそこに配属された。
「お前は薩摩を恨んでるのか?」
木堂は尋ねたが、すぐ「そりゃあそうか、故郷、会津を滅ぼしたんだからな」と付け足した。
「うんにゃ」
少し間を置いて、会津の侍は答えた。
「…薩摩を、にぐまねと…にぐまねと」
それ以上には出てこない。多くの言葉が生まれそうで生まれず、この者の中に重く沈んで行っているのだろう。
薩摩を憎まないとやっておれないのだ。
何者でもない一人の侍として。薩摩のせいにすれば、そして戦えば。
自分以外の何かを守る士にはなれる、そう思ったかもしれない。
「おらこんなだ、臆病で、クニ裏切って、出世できねで、役たたずで死んでぐ」
「おいおい」
木堂は呆れたように言った。
「お前、すごいよ。俺が覚えててやるよ。どこの旗本よりすごいよ。戦ったじゃないか、いつだってお前、戦ってたじゃないか。故郷だって一度も忘れちゃいないじゃないか。いいか、お前は死なない。そんなもんで死ぬかよ、だろう?」
酒でもあればな、と木堂は思いながら、記事を書き付けている手帳を取り出して聞いた。
「さて、田原坂で、何人斬った?」
「さあ、十、三人かなんにんか。でも誰も死なねっぺよ」
会津者はかすかに笑った。
夜が明けると木堂は病院を開いている、坂の下の徳成寺までこの会津者を送り届けた。
「会津に帰る」
ボロボロの隊士は、木堂に礼を言うと、最後に小さくそう言った。
事実とは、皆が望む芝居のようにはいかぬ。だが、その者の歩いた道程は、どんな英雄譚よりも尊いにちがいない。
木堂はこれを植木にある郵便局から、本社あてに書き送った。
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「木堂さん、結局、誰なんですか?この会津人」
記者仲間の飛高がそう聞くと、木堂は淡々とした口調で言った。
「それがな〜。名前聞くの忘れてた。でもひとっつも!嘘は書いてないぜ?本当だって」
「十三人も殺したって…それって、結構やぶさかでない人斬りじゃないです? 怖くなかったんですか?!」
「俺は、怖かねえよ」
木堂はニッと笑った。
(斬った、とはハイ、書きましたとも!でも、「斬り殺した」とは書いてない!
…あの隊士、いや会津の侍、生きてるさ。そして必ず会津に帰っただろうよ)
人々は謎の英雄譚を噂しあった。
木堂は、全てを記してはいない。
終
小説「13人を斬った元会津藩、抜刀隊士の謎」(2)
京へ、…上った。
私はお里に用を頼みたいからと、わざわざ人目につかない神社で待っていてほしいと言った。本当は何の用事もない。
「何ですか?」ときょとんとされて、頭は真っ白になった。
好きです、惚れてます、妾に、いやずっとそばにいたい、
…言葉はどれも違った。気持ちを落ち着けて、それでやっと口をついて出た言葉は、事もあろうに「私は明日、京に発つ」という、一言だった。
「私を待っていてくれ」という資格など、まだ何の功もあげてないのだから言えるわけがない。顔を真っ赤にして精一杯に威勢をはって言った言葉に、お里は「はい」「寂しゅうございます」と返した。
激しく、胸が空いてもやもやした。私は堪えた。
「すまぬ、用があったがもういい、忘れた」
というと、お里はまた「はい」と言った。
都は殺伐としていた
京に着くと、三条大橋のあたりに大勢の見物人が出て、我々が金戒光明寺まで行進するのを見守ってくれた。我らがこの地を守らねば誰が守るのか、悪漢どもを全員捕縛する、寺では口々、そんなことを血気盛んにいい合う者らもいた。
それからは、最初の揚々さも日に日に薄れていった、というのが正直な話だ。
京は動乱。毎日のように誰かが斬ったの斬られたの。我々とは別に、市中を見回るのに新撰組や見廻組もいたのだが、こと二条城前は穏やかではなく、しかも浪人といえど私など到底かなうわけもない剣豪がぞろぞろいる。気を抜けばいつ自分が斬られるかはわからない緊張感と不安で、時期に眠れなくなった。
薩摩藩は、元治元年の蛤御門の時は共に長州をうち倒すための仲間だった。
そして私は知った。
出世する、功を成すとは、実際には何某かよく知りもせぬ相手を、「敵であると」いう理由だけで数多く殺すことに過ぎないのだと。
あるのは敵か味方かの確認だけで、それに眉ひとつ動かさず鬼になりきれる者だけが、出世者となれるのだ。
会津でぬくぬくと育ち、魚一匹ろくにさばけないような男にいきなり「斬れ」、などと言われても、真剣を構えるのすら腰がひける。
与力がぬすっとを捕縛するのなんぞとは全く違う世界のことだ。
長州の者らにある、あの死ぬ気の覚悟は、気迫は、同じように刀を持ちながら、どうにも私には遠いものだった。
私はただ逃げた、臆病侍だった。
上様、今度です、こそ今度こそ武功を、などと思っているうちに、大政奉還、王政復古…。
ただ日々の勤務をこなすうち、知らぬ間に幕府側である我々は悪者にされていった。
誰もが「この国の一大事」を語る。黒船からの、危機的な事態を語る。
知らないわけではない、だがなぜか自分には遠いのだ。お前は馬鹿かと、何度も説教を垂れられた。故郷でそのような本を読んだことがないわけではない。
なのに、私だけなぜか「夢の国」にでもいるように、「だからその者を殺す」ということにつながって行かないのだった。私の見えているものと、国を憂う彼らの言うものとは、隔りがありすぎるように感じた。
鳥羽伏見の戦になった。
「長州側か否か」「尊皇攘夷か否か」と言っていた勢力争いは、すっかり「旧幕府」か「天皇か」になり、やがてどっちつかずの諸藩も天皇側につき始めた。
もう一体何が国のためかはわからないから、それなら武士として、最後まで容保様のために戦おうと決めた。
鳥羽伏見の戦で、淀藩は城に入れてくれと叫ぶ我らを無視し、冷たく城門を閉じた。
ちょうどその直後の混乱の中、容保様は会津藩士を置いて江戸にお逃げになったと聞かされた。
我々の半分くらいは「見捨てられた」と思った。
皆、怒りを通り越した、虚無を感じていた。
ところが後日、我々は会津の江戸藩邸がある和田倉に集められた。
上様は、先に江戸に逃げてしまったことをお詫びになった。
そして財政難ゆえ少しですまぬが納めよと、鳥羽伏見の戦の礼金をくださった。見捨てられたわけではなかった、上様ご無事で何よりと喜ぶ者もいた。
その金を懐に入れ、私は誰とも目を合わさず無言のまま仲間と別れ、品川宿に流れて行った。
品川宿は活気があって、京の紛争が、あの緊張して一睡もできない日々が、まるっきり芝居か何かのようだった。あの狂気の動乱の外側には、うまい飯を食って酒を飲んで、戦はどうなりましたかねえなどと一杯やりながら呑気に話す人々の暮らしがあった。品川にはもう、洋装の者もちらほらいた。西洋人も見た。
我々は敗走し、完全に会津は朝敵となった。
容保様は江戸を追放され、会津にお戻りになるのだという。
聞けば他の藩士や江戸詰めも皆、戻るという。
そりゃあそうだ、義理というものだ。もらうものはもらっておいて、戻らぬなどというのは武士以前、人として許されぬ、そうも思った。
「お前も戻るよな?」
そう聞かれて生返事をした。私の頭からは、すっかりもうあの「お里」のことなどは消えていた。
会津はすっかり賊軍になった。なぜこんなことになった?
おかしな話ではないか、どこのどんな武士より、この国を守って、そして私は出世するのではなかったか?
小説「13人を斬った元会津藩、抜刀隊士の謎」(1)
戊辰の復讐? 会津人斬り警視の謎
「田原坂、警視隊に会津藩士の生き残りがいて戊辰の復讐を叫びながら残兵十三人を斬った。少々小説のような話だが決して虚説にあらず、この会津人は少々手負であった」
これは、明治十年三月二十五日の新聞に掲載された、犬養木堂の見聞による記事である。巷では、会津藩士とは誰だ、これだけの剣客で警視隊なら、本当は会津でなく、会津戦争にも参加した元新撰組の斉藤一ではないか?」「いや、田村吾郎陸軍少尉では? 会津士族だぞ」などと散々憶測が飛び交い、たちまち人気となった。
三月二十一日、夕刻。
田原坂の合戦から一日が過ぎた、雨でぬかるんだ坂道の途中だった。取材のため、犬養木堂は官軍の居留する木葉から入り、細長い山道を歩いていた。
木堂、後に「犬養毅」の名で知られることになるこの男は、当時は大学生。の、かたわら、郵便報知新聞の記者見習いをしている。現代で言う「戦場ジャーナリスト」である。
主筆の栗本鋤雲に言われ、西南戦争の現地取材の為に、他の記者団より一足先に単身、熊本に入っていた。
と、ひん曲がった刀を振り上げ、ボロボロの男がいきなり、大声で叫びながら斬り掛かってきた。
「戊辰のオ、ガ、ガタキイッ!」
———は? 戊辰戦争の仇?
会津の者か?と、尋ねるまでもない。
よろめき震えながらも、男は再び大上段に構える。血まみれ泥まみれの官軍兵で、警視隊の軍服を着ている。
振り下ろされた刃をひらりとかわし、木堂は叫んで制止した。
「ま、待て!待てって!俺は敵じゃねえ!薩摩じゃねえっ!」
泥のこびりついたその真っ黒い顔の中で一瞬、白目が動き、男は動きを止めた。
「俺はこの通り、筆以外持たん! な? ただの新聞記者だ!」
その木堂の眼前、この戊辰戦争の仇を叫ぶ警視隊の隊士は、今再び刀を構える力をも落としたと見え、がっくりと両膝をついて倒れた。
「お、おい?おい大丈夫か?」
ピクピク小刻みに震えながら地に伏せ、濁った声で呻いている。手負いだ。それもかなり。
もう少しで日も暮れる。木堂は肩を貸した。
今日がいつなのか、その意識すらあるのかどうか。
置いて行かれたか。官軍も薩摩軍も、もう山鹿*1の方に向かったらしい。木堂は声をかけた。
「おい傷、痛むか? すぐそこまでだ、我慢しろよ」
坂途中に、奇跡的に焼け残った民家があった。合戦の後は何もない焼け野原になっていたが、一件だけポツンと残ってっていた。
奥の一部は砲撃で壊れ、家屋は埃まみれだったが、また雨になるかもしれない。
ぬかるんだ夜道を、重傷人を背負って歩くわけにもいかない。
坂をしばらく下りた先に官軍が拠点としていた「木葉」と呼ばれる地があるが、そこが全く安全という保証もない。
今夜はここに泊めてもらうことにした。
木堂は会津者を居間に横たえ、台所を確かめた。水甕に、水は充分にあった。
お湯を沸かし、白湯を作って会津者に飲ませた。
「夜が明けたら、何とか野戦病院まで送り届けてやるから、それまで持ち堪えろ」
会津者は小さく頷いた。
白湯を口にすると、隊士は少し落ち着いたと見えた。
様子では脇腹の弾傷の他に足の骨もやられている。銃弾は急所を外れて貫通しているが、襲いかかるだけのあの力は、精神力だけのものであっただろう。
「さっき、戊辰の仇だと言ったな?」
木堂は訊いた。隊士は何も言わぬ。
「ああー、いい、無理ならいいよ。喋らなくても」
それから、眠ったか眠らないか、しばらくただ、二人とも黙ったまま過ぎた。
やがて会津者は、か細い声で、「聞いてくれっがし…」と言った。
以下は、会津弁を犬養の頭の中で翻訳した話になる。
「私の生まれは会津、家は与力、武士を羽織紐の色で分けた階級のある会津藩で、紐色は茶色。高くないが低くもない身分だった。
城下にそこそこの広さの邸があり、そこで育った。
幼い頃はわりと裕福な方で、別にそれについて何かを考えたことはなかった。
おそらくは他の多くの士族らと同じように、その家に生まれてそれがごく当たり前という日々を過ごし、小さないさかいも含め平和で、この先もずっとそんな日々が続くのだろうと思っていた。
その邸に、「お里」という端女が雑用をしていた。それがまた「めごくて、めごくて」以外の言葉を知らない。
とにかく可愛い。低い鼻も、丸いキョロキョロする目も、もしかしたら一般的にはさほど「美人」ではなかったのかもしれないが、私には特別なものに見えた。小柄で子犬のようだった。
そのお里、生まれつき近目らしく、うんと近づかないと物が見えなかった。
そのせいなのか、常に要らぬ失敗ばかりしては、叱られて泣く。
その様子をずっと物陰から眺めては「いつか自分が全部、絶対助けてやるぞ」と思っていた。
「いつか」といえど、嫁はおそらく、いずれどこぞの武家の女子との縁談を親が決めるのだろうが。
いやそれなら、こっそり妾にしよう。よし決めた。しかし、妾なんぞこんな自分が、果たして責任持てるのか? 子が出来たらどうする?
「子? どうする?どうする?」
「出世するっぺ!出世しかないっぺ!」
一人、そんな妄想やら気恥ずかしさやらを抱え、熱病のようにお里の名前を呼んでいた。
布団の上で手足をバタバタさせ、私はあの娘のために、きっといつか偉くなってやる、偉くならなければならぬのだとそう誓った。
それから、そんなに経たぬうち、世の中はどんどんおかしくなって行った。
何十年経ったわけではない。ほんの三年ほどだ。
会津の殿様、松平容保様が京都守護職に任命され、治安の悪い二条城周辺の警備を任されることになった。
会津からは千人の部隊が京に赴任することになった。
京で悪い者どもを片っ端から捕縛するなりして名を上げれば出世する。旗本はまず間違いないだろう、などと。そんな夢のような自分の姿ばかり追っていた。
そしていよいよ京に上ることになった前日。私はお里を呼び出した。
告げたいことが山ほどあった。