田原坂46

西南戦争を舞台にした小説。官軍側は犬養木堂、福地源一郎のレポート形式。

小説「13人を斬った元会津藩、抜刀隊士の謎」(2)

京へ、…上った。

 

 私はお里に用を頼みたいからと、わざわざ人目につかない神社で待っていてほしいと言った。本当は何の用事もない。

「何ですか?」ときょとんとされて、頭は真っ白になった。

 好きです、惚れてます、妾に、いやずっとそばにいたい、

 …言葉はどれも違った。気持ちを落ち着けて、それでやっと口をついて出た言葉は、事もあろうに「私は明日、京に発つ」という、一言だった。

 「私を待っていてくれ」という資格など、まだ何の功もあげてないのだから言えるわけがない。顔を真っ赤にして精一杯に威勢をはって言った言葉に、お里は「はい」「寂しゅうございます」と返した。

 激しく、胸が空いてもやもやした。私は堪えた。

「すまぬ、用があったがもういい、忘れた」

というと、お里はまた「はい」と言った。

 

 都は殺伐としていた

 京に着くと、三条大橋のあたりに大勢の見物人が出て、我々が金戒光明寺まで行進するのを見守ってくれた。我らがこの地を守らねば誰が守るのか、悪漢どもを全員捕縛する、寺では口々、そんなことを血気盛んにいい合う者らもいた。

 それからは、最初の揚々さも日に日に薄れていった、というのが正直な話だ。

 京は動乱。毎日のように誰かが斬ったの斬られたの。我々とは別に、市中を見回るのに新撰組や見廻組もいたのだが、こと二条城前は穏やかではなく、しかも浪人といえど私など到底かなうわけもない剣豪がぞろぞろいる。気を抜けばいつ自分が斬られるかはわからない緊張感と不安で、時期に眠れなくなった。

 

 薩摩藩は、元治元年の蛤御門の時は共に長州をうち倒すための仲間だった。

 そして私は知った。

 出世する、功を成すとは、実際には何某かよく知りもせぬ相手を、「敵であると」いう理由だけで数多く殺すことに過ぎないのだと。

 あるのは敵か味方かの確認だけで、それに眉ひとつ動かさず鬼になりきれる者だけが、出世者となれるのだ。

 会津でぬくぬくと育ち、魚一匹ろくにさばけないような男にいきなり「斬れ」、などと言われても、真剣を構えるのすら腰がひける。

 与力がぬすっとを捕縛するのなんぞとは全く違う世界のことだ。

 長州の者らにある、あの死ぬ気の覚悟は、気迫は、同じように刀を持ちながら、どうにも私には遠いものだった。

 私はただ逃げた、臆病侍だった。

 

 上様、今度です、こそ今度こそ武功を、などと思っているうちに、大政奉還王政復古…。

 ただ日々の勤務をこなすうち、知らぬ間に幕府側である我々は悪者にされていった。

 誰もが「この国の一大事」を語る。黒船からの、危機的な事態を語る。

 知らないわけではない、だがなぜか自分には遠いのだ。お前は馬鹿かと、何度も説教を垂れられた。故郷でそのような本を読んだことがないわけではない。

 なのに、私だけなぜか「夢の国」にでもいるように、「だからその者を殺す」ということにつながって行かないのだった。私の見えているものと、国を憂う彼らの言うものとは、隔りがありすぎるように感じた。

 

 鳥羽伏見の戦になった。

 「長州側か否か」「尊皇攘夷か否か」と言っていた勢力争いは、すっかり「旧幕府」か「天皇か」になり、やがてどっちつかずの諸藩も天皇側につき始めた。

 もう一体何が国のためかはわからないから、それなら武士として、最後まで容保様のために戦おうと決めた。

 鳥羽伏見の戦で、淀藩は城に入れてくれと叫ぶ我らを無視し、冷たく城門を閉じた。

ちょうどその直後の混乱の中、容保様は会津藩士を置いて江戸にお逃げになったと聞かされた。

 我々の半分くらいは「見捨てられた」と思った。

 皆、怒りを通り越した、虚無を感じていた。

 

 ところが後日、我々は会津の江戸藩邸がある和田倉に集められた。

 上様は、先に江戸に逃げてしまったことをお詫びになった。

 そして財政難ゆえ少しですまぬが納めよと、鳥羽伏見の戦の礼金をくださった。見捨てられたわけではなかった、上様ご無事で何よりと喜ぶ者もいた。

  その金を懐に入れ、私は誰とも目を合わさず無言のまま仲間と別れ、品川宿に流れて行った。

 品川宿は活気があって、京の紛争が、あの緊張して一睡もできない日々が、まるっきり芝居か何かのようだった。あの狂気の動乱の外側には、うまい飯を食って酒を飲んで、戦はどうなりましたかねえなどと一杯やりながら呑気に話す人々の暮らしがあった。品川にはもう、洋装の者もちらほらいた。西洋人も見た。

 

 

 我々は敗走し、完全に会津は朝敵となった。

 容保様は江戸を追放され、会津にお戻りになるのだという。

 聞けば他の藩士や江戸詰めも皆、戻るという。

 そりゃあそうだ、義理というものだ。もらうものはもらっておいて、戻らぬなどというのは武士以前、人として許されぬ、そうも思った。

「お前も戻るよな?」

 そう聞かれて生返事をした。私の頭からは、すっかりもうあの「お里」のことなどは消えていた。

 

 会津はすっかり賊軍になった。なぜこんなことになった?

 おかしな話ではないか、どこのどんな武士より、この国を守って、そして私は出世するのではなかったか?